壬生・島原編

島原大門

島原は京の町では有数の遊郭でした。京都には祇園や上七軒など有名な花街がある中で、島原は壬生の屯所からも近かったことから、新選組のメンバーたちもよく利用したようです。

 


角屋

寛永十八年(1641)創業の由緒正しき料亭で、現存する揚屋建築としては唯一の遺構として重要文化財に指定されています。当事は西郷隆盛や久坂玄瑞などが良く通ったとされ、しばしば密会の場としても利用されました。新撰組もまた常連であり、特に芹沢鴨は数々の乱行を重ね、その粛清のきっかけともなりました。芹沢暗殺の夜、新選組はこの角屋で宴会を開き、八木邸に戻った芹沢を殺害したのです。


輪違屋

輪違屋は、揚屋と置屋を兼ね備えた現役の店で、日本で唯一「太夫」が居る所です。太夫は「こったい」とも呼ばれ、正五位の位を持ち十万石の大名に匹敵するとされるほど格が高く、また教養も深かったことから、客の方が太夫の機嫌をとったと言います。

輪違屋の遊女は新選組隊士と関わりが深く、山南敬助と明里、平間重助と糸里、伊東甲子太郎と花香太夫が馴染みの仲だったようです。

 

1階には近藤勇書の屏風が、2階には桂小五郎書の掛軸があります。


新徳寺

新徳寺は、江戸時代末期(幕末)で活躍した新選組にまつわる最初の舞台となった場所としても知られる。

 

上洛した新選組の前身浪士組のリーダー清河八郎が浪士達を集めて、大演説をしたのが新徳寺の本堂である。「尊王攘夷をやる」と清河達は江戸に引返したのであったが、八木邸を宿舎としていた近藤勇のグループが「我々の役目は幕府権力の維持だ」として、清河が率いる浪士組を脱退して京都に残ったのである。これが新選組の誕生である。


壬生寺

かつては壬生寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行こなわれたという。

また、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、 近藤勇をはじめ隊士が壬生狂言を観賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったという、面白い逸話も当寺に残っている。

 

境内にある壬生塚には、新選組やその遺族らによって建てられた墓碑4基がある。


八木邸

「壬生郷士八木邸」。幕末に新選組の近藤勇や土方歳三などが泊まり、新選組の屯所となっていました。お屋敷は八木源之丞のものです。ここで起こった芹沢鴨の暗殺。その傷がありありと残り、新選組が生きた証が今もなお残っています。


前川邸

北辰一刀流の免許皆伝を持つ山南敬助は、壬生の人たちからとても人気のあった隊士だったようです。

その彼が書置きを残して新撰組から脱走をしましたが、沖田総司に見つかって連れ戻されてしまいます。

隊規で新撰組を脱することは禁止されていたため、山南敬助に切腹が申し付けられ自害します。

切腹した部屋がこの前川邸にあります。8畳の広さの部屋ということです。


山南敬介をはじめ、松原忠司、桜井勇之進、田内知などのほか多くの隊士が眠っている浄土宗満月普照院光縁寺。

知恩院の末寺。光縁寺の住職、良誉上人と新選組副長の山南敬助との親交から屯所で切腹、粛清された隊士達が弔なわれ、埋葬されることになったと言われています。